廃車も登山もなんでも、やってみないとわからない点

廃車も登山もなんでも、やってみないとわからない点

人というものは、知らず知らずのうちに自分のなかで「これならできるから大丈夫」とか「これはできそうにないからやめておこう、あきらめよう」と勝手に自分のレベルを設定したり、自分で自分にレッテルを貼ったりしている。

 

 

確かに人は、何か新しいことを始める際、自分が今まで経験してきたことを基準に、そのことに対して自分がどれだけの能力を発揮できるか無意識に判断してしまう。それは、安全な、無難な方法であるかもしれない。もちろん私も例外ではない。

 

 

 

私は今まで何か新しいことに挑戦をするとき、まだ始めてもいないのに「これは自分の能力ではとうていかなわないからやらないでおこう」と言い訳を見つけては逃げてきた。

 

 

 

 

しかし、今振り返って思うのは、「あの時逃げていなければ、もしかしたらきっとうまくいっていたかもしれない」ということである。

 

 

 

そう、ある物事に真正面から突き進まず、逃げてきたことによって得られなかったもの、逃してしまったものが山ほどあるのだ。しかし、今さらそのようなことを思ったところで後悔先に立たず。もう遅いのである。

 

 

 

 

 そんなふうに、挑戦から逃げてばかりいた自分に友人からある誘いが舞い込んできたのである。「富士山に登らないか」という誘いである。あの日本の最高峰である富士山に登ろうというのだ。この誘いを最初に聞いたとき、私の脳裏を「恐怖」という2文字が横切った。

 

 

 

「高山病にかかったらどうしよう」「途中であきらめて下山することになったらどうしよう」、ありとあらゆる恐怖や不安に襲われた。

 

 

 

私はその誘いを断ろうとした。すると、その友人は「人生は挑戦にあり」という言葉を口にした。私はその瞬間「確かにその通りだ」と思った。今まで挑戦から逃げてきた自分が何をすべてわかったかのような態度をとっているんだと言いたくなるかもしれない。が、もうこれ以上挑戦から逃げるのも嫌なので、私は誘いを引き受けることにした。

 

 

 

 

それからというもの、不思議なもので、よくわからないが根拠のない自信に自分が満たされていくのを感じた。

 

 

富士山に登るのは初めてだし、不安もいっぱいあるけれど、一緒に登る仲間がいるから、頂上に辿り着けばきっと御来光を見ることもできるから、まずは登ろうという強い思いが自分のなかでどんどん大きくなっていった。

 

 

 

 

そして、いよいよ富士登山当日を迎えた。私たちは五合目までバスで移動し、そこから先は歩いて山頂を目指すことにした。当たり前のことかもしれないが、やはり登り始めは楽である。この調子なら、山頂まであっという間だと意気揚々としていた。

 

 

しかし、2時間、3時間と時が過ぎていっても、一向に頂上に辿り着かない。もちろんそんな短時間で頂上に辿り着けるとは微塵も思っていなかったし、富士登山というものはたやすいことではないとわかっていた。

 

 

そうは言っても一向に山頂に着ける気配がしない。むしろ、山頂がどんどん自分から離れていく気がした。「あー、やっぱり富士登山なんてするもんじゃなかった」という言葉が何度も頭の中でぐるぐる回っていた。それに加え、気温はどんどん下がっていき、酸素も薄くなっていくため、気分はますます落ち込んでいった。

 

 

 

私は諦めなかった。なぜなら、ここで諦めたら、これからもずっと諦めてばかりの、逃げてばかりの人生を歩むことになるだろうと予想したからである。そんな人生はもうごめんだし、そもそも富士山まで来て、頂上にも行かずに帰るなど、情けないこと極まりないと思ったので、私は意地でも登頂することを自分に誓った。

 

 

 

 

 

私は山頂に辿り着いたのである。五合目から頂上まで9時間近くにわたる気が遠くなりそうな道のりではあったが、今までに味わったことのない充実感、達成感に満たされた。無事に御来光を目にすることもでき、ここまで来ることができて本当によかったと心からそう思った。

 

 

 

 

結局、自分ができないだろうと思っていることは、あくまでそう思っているだけであって、やってみたら意外とできてしまうかもしれないのである。そもそも、やる前からこれはできないからと言い訳を並べて何もしないより、まずは始めて見ることが大切だということをこの富士登山を通して深く学んだ。